故郷、通過儀礼、人生の拡張

祖父が死んだ。
92歳だったので大往生というやつで、悲しくないわけではないけども、若い人を亡くしたわけじゃないので、親戚一同納得というか、よく頑張ったよね、という雰囲気だった。

よくよく考えてみれば、ちゃんと人を見送ったのは初めてかもしれない。
一人目の祖母は中学1年のときだったので、まだあまりそういった儀式のことがわからない年齢。
25歳くらいのとき、自分の友達のときはとにかく悲しくて、見送った、という感じじゃなかった。
なので、通過儀礼としての葬儀を大人になって、見送りの主体者として(まぁ直系の孫だし。)参加したのは今回が初めてだった。

故郷


僕の育った街は滋賀県の琵琶湖のほとりの小さな街で、田舎ではあるものの、京都・大阪からのアクセスが良いこともあり、地方のベッドタウンとしてはそこそこの大きさで、イオンもTSUTAYAもあるし、生活するには不便のない街。

一方、祖父は琵琶湖の真ん中の島で、淡水湖の中の島に350人ほどが住んでいるという世界でも珍しい島で、ずっと漁師として生活をしていた。
ここは、街の外れ(田んぼばっかり)から船で20分程度の場所で、めちゃくちゃ遠いわけではないけども、交通インフラは致命的に悪く、若い人がどんどん出て行くので、近年、人口の減少に歯止めがかからない。

ちなみに茅ヶ崎から最短で来ようとするとトランジットが超絶悪いから6時間くらいはかかるので、北海道・沖縄の方が近いくらいのレベル。
江ノ島と違って、滋賀県はもとより、市内の人でも島に入ったことがある人は少ないと思う。

島の港から
いわゆる漁村

そういう島で祖父の人生は終わり、葬儀は島で行った。

父は次男だったので、高校を卒業したら会社員になり、僕の故郷の街に住みながら京都で働いていた。
だから僕がこの島に来るのは父親の盆・正月の里帰りのときだけで、それも中学生を過ぎると足が遠のくので、この島に足を踏み入れたのは15年以上ぶりだったと思う。

通過儀礼、喪服の意味


そういうアクセスにあるから、正直めんどくさかったし、前日に雪が降る寒さの中島に渡るのは億劫で仕方がなかった。

僕は自分でいうのもなんだけれども、すごく合理性を大切にするので、「来る人のことを考えて、市内でやった方がいいじゃん」と思っていた。
だけど、ローカルにはローカルのルールがあるし、通過儀礼というものはどういうものなのかを改めて考える機会になったし、ちょっと考え方を改めた。

通夜・葬儀は檀家に入っている島の中の寺で行われた。
ローカル専用の港から船が出て、夜は真っ暗、朝は極寒の中で島に渡らないといけない。島は寂れていて人気がなく、終わったら街に帰るだけの儀式。
椅子もなく、ほんの1時間ちょっとでも喪服に座布団で座るのはきつかった。

通夜は思っていた以上にラフだった。
子供は騒ぐし、おっさんたちは酔って普通の声で話している。お焼香も席に回ってくるスタイルで、呆気なく終わった。
『大往生の人が亡くなるというのは、こういうものなのかな?』
そのときはそう思っていた。

次の日の葬式は通夜とは打って変わって厳かだった。
祖父の友人はほとんどが先に逝っているので、参加者はほとんど変わらない。
でも、しゃべる人はほとんどなく、しんみりと葬式は進んだ。

僕ももう大人として、葬儀中に携帯を見たりとかするわけでもなく、祖父の写真を見ながらよくわからないお経をボーッと聞いていたら、ふと祖父のことを考えるようになった。

祖父はもう高齢だったということもあり、会うことが出来るタイミングでは出来る限り会えるように、僕の両親がうまく調整をしてくれていたので、最後1年くらい前には会えていたけども、思い出というのは上書きされていくので、僕の中で祖父の思い出や情報、顔つきなどはバラバラと記憶の断片に存在していたに過ぎなかった。

戦争には行ってたっけな?祖母が死んで何年だったっけ?最後に話ししたのはいつで、何を話したっけ?

葬儀の運営の方が祖父の人生を簡単に紹介すると、彼の人生はここで始まり、少し戦争に行って、ほぼここで閉じたんだなと思った。

僕は宗教のことはよく分からないので、お経の意味とかを考えるのには少し人生経験が足らないけれども、こうやってまとまった時間、遺体の前に向き合って過ごすことで、「お別れ」というのが出来るんだということを知った。

もう一つ。喪服の意味。意味というより機能。
フォーマルウェアというのもまた、合理的、という概念からは少し外れるように思う。滅多に使わないものに十何万円もかけて用意をしておくとか、バカげている。
「喪服は喪に服してるいるということを表すために、黒の〜」などとよく説明されるけれども、「何故黒(白)なのか?」とか「何故着るのか」という話はあまり知らない。

今回思ったけど、喪服ってみんな一緒だから、気が散らない。
気が散らないから、故人に集中出来る。視覚的にも精神的にも。余計なことを考えない、ということもまた、通過儀礼には重要なんだと思った。

棺に花を入れるときに、涙が出てびっくりした。
祖父とはもう1年に一回会うか会わないかだったし、大往生であり、この時は間もなく来るということも随分前から分かっていたことだったけれども、自分に愛情を注いでくれた人が死ぬということは、悲しさというよりも感謝で涙が出るものなんだと思った。

祖父の記憶はもうあまりないけれど、こういう年になると、例えば自分の両親が孫(姪)にいかに愛情を注いでいるかはよく分かるので、とても穏やかだった祖父はきっと僕らに対して同等以上の気持ちを持ってくれていたに違いない。

出棺のとき、祖父の息子3人と孫3人(僕含む)、祖父の直系の6人の男性が棺を運び出し、寺から300mくらいの間、親族と交代しながら棺を運んだ。
実はこの6人、もはや親戚付き合いは途絶えているに等しく、それぞれの親子関係はつつがなく維持しているが、それ以外はもはや完璧に他人であり、連絡先も知らなければ、正直、どちらかというと好意は少ない。

それでも祖父を運び出したときは紛れもなく親族であり、血縁関係であり、祖父への思いで僕らの気持ちは繋がっていたことは間違いないと思う。

そして棺を運び出し、船が出航したとき、驚いたことがあった。

特に合図があったわけではないのに、大勢の島の人が船を見送りに来ていた。
葬儀に来ていたわけでもなく、僕が知らない人たち。島民の1/3くらいはいたんじゃないかな。
祖父は島の長老だったので、祖父になんらかの面倒を見てもらったり、声をかけてもらったりという人は多かったようだ。

市内で葬儀をやっていたら、彼ら・彼女らはきっと祖父を見送ることはなかっただろう。

そして、船は祖父が長く暮らした家の前をゆっくりと通って火葬場へ向かう車が待つ港へと向かった。

人生の拡張


祖父は大正に生まれ、戦争で中国に行き、帰ってきた後は生涯琵琶湖の中の漁師として人生を終えた。
つまり、自由のない戦争での経験以外、ほとんどの人生を琵琶湖の中で過ごしたことになる。

教育環境が十分でなく、職業選択の自由が「事実上」ない時代、場所で生きた祖父には、僕のような仕事の経験、旅行、住環境、教育、娯楽、美食の経験はない。
とにかく厳しい自然の中で仕事を全うし、派手な生活もせず、穏やかに地味に暮らした祖父がいなければ僕はいない。そう思うと、これほどありがたい話はないなと思った。

もちろん、祖父がそれを望んでいたかどうかは分からないけども。

祖父の人生は琵琶湖で終わったけど、息子である父は京都に出て、孫である僕は東京に出たことで、祖父の人生は拡張し、時間と距離を超えて、祖父の人生の一部になっていく。

終わり